神の導き


一昨日、ふと「神の導き」という言葉が湧き上がってきて、
その言葉を発してしまいました


そのあと、ネットで検索したら、このようなメッセージに
出逢いました。このサイトに出逢えたことも偶然のようで、
必然のような気がいたします


光るものを感じましたので、そのまま引用させていただきます。
少し長い文章なので、お時間がある時に、お気が向かれました
ら、お読みくださいませ )^o^(



「神の導き」

「神がいるかいないか」・「神の導きがあるかないか」――そのような議論はここではしません。いまここで対象とする読者は、「とりあえず、神はいるだろう」・「神の導きはあるに違いない」という人たちから、もっと宗教制度的にそれを信仰し、生活の一部として当然のことしている人たちまでとします。かなり広い対象範囲のようですが、ともかく、「この世界は偶然の産物である」と考えている人は対象としません。つまり、今回の文章では、「神の導きがある」という前提の上、そう言ったときに私たちが陥ってしまう「欺瞞的傾向」について話をしたいと思います。

これは繰り返し述べていることでもありますが、私たちが神について考えるときの最大の過ち(というか不可避的な困難)は、「神を対象的に捉えてしまう」ということです。「神は、あそこにいる、ここにいる」・「これが私たちの神であり、彼らの神はあれだが、あれは間違いだ」というような捉え方。これが、「神を対象的に捉える」ということであり、別の言い方をすれば、「二元論的に神に出会う」ということです。このような状況では、私たちは、「神を追い求めれば求めるほど、神から遠ざかってしまう」という悪循環(これは「人類の自我の歴史」でもありますが)に陥ってしまいます。神が対象的・二元論的に捉えられている限り、そうした「神をよく知ろうという行為」は、「神を定義する行為」でしかないからです。「定義する」ということは、つまり「解釈する」ことです。そうすると、時代により、文化により、社会により、さらには個人により、神の定義・解釈は多種多様になってきます。そして、こうした定義の違いが、宗教戦争の元凶であり、「神という対象」をさらにイデオロギーや価値観や国家的民族的信念などにまで枠を広げると、人間の争いの全ては、こうした定義・解釈の多種多様性がもとになっている、とさえ言うことができるでしょう。

前近代より以前のずっと大昔、私たちが動物同様、無意識的に生活していたとき、「対象的な神」を求めるような認識行為はほとんどありませんでした。それが、自我の獲得(意識の誕生)と共に、「自分とは何か」・「世界とは何か」・「神とは何か」ということを、対象的・二元論的に追求することになり、上記のような争いが「前近代の幕開け」と共に始まりました。「これが私の神です。あなたの神・彼らの神は、神ではない」とそれぞれが主張し、何らの合理的共通認識を得る努力もしないため、結局、「殺し合いによる解決」がその究極のかたちをとる結果となるだけでした。こうした前近代的な考え方はいまでも世界中に蔓延しています。

そして、近代とは、ここでの文脈に限定した視点から述べるのならば、こうした主観間の殺し合いを避けるための意識レベルとして、合理性・客観性・論理性を重視しようとしたパラダイムです。ただし、合理性・客観性・論理性への努力は、主観的差異に対する調停役は果たしたとしても、「見えないもの(対象的・二元論的には捉えられないもの)を信じても仕方がない」という非精神的(非霊的)な考え方を蔓延させただけでした。いわゆる「神が死んだ」というパラダイムです。徹底的な合理性・客観性・論理性による世界の理解が、科学技術を生み出し、私たちの生活にも多大なる恩恵をもたらしたことは事実です。他方、根本的・超越的な問いに対する答えは、そこから得ることはできませんでした。

生まれたばかりの赤ん坊が直ぐに死んでしまったとき、恐らく近代の科学は、その「現象」の説明をすることはできるでしょう。たとえば、「赤ん坊が未熟児であり、外界に対する抵抗力が不十分であった」など。これは「説明」です。ただし、この「説明」では、母親の悲しみを癒すことはできません。あるいは、「赤ん坊は、母親の業を背負ったため」とか、「神の天罰が下った」とか、「母親の信仰・信心がもっと強ければ助かった」とか、このような「前近代的・宗教的説明」の場合はどうでしょうか。ある程度は、母親の悲しみに応えてくれるかもしれません。ただし、こうした「説明」が、前近代に蔓延した宗教的・原理主義的な残酷性と共通するメンタリティーであることは、(近代人としての)私たちは、嫌というほど知っています。ですから、近代人は、「できるならば、神の話はしないですまそう」とするのです。「語りえぬものには沈黙しなければならない」ということです。

近代的な無神論でもなく、前近代的な迷信(神)論でもなく、また、前近代以前の動物的無意識でもなく、そうしたいずれでもなく、「神と向き合う」ということはできるのでしょうか。このような問いは、もちろん、追求され続けました。実は、このような問いへの答えは、「神秘主義」という名で知られている「非対象的な神」・「非二元論的な神」・「内なる神」を求めるというかたちから得ることができます。そして、このように神秘主義的に「神と向き合う(ここでは「向き合う」というニュアンスも注意して使用するべきなのですが)」には、「自我を徹底的に排除するしかない」という、その「手順」も既に知られていました。

あえて大雑把にいえば、老子も、仏陀も、キリストも、パウロも、エックハルトも、こうした「手順」を熟知していたでしょうし、彼らは、このような「手順」に基づく「神との出会い」も経験(実感)していたでしょう。

しかしながら、このような「神秘主義的な手順」が一人歩きして、超近代的(ポストモダン)な自我に利用されてしまうと、またしても、そうして利用した人たちは、神から遠ざかってしまうことになります。イエス・キリストの「私は神であり真理である」という言葉は、ポストモダン的な人物においては、単なる自我肥大の道具として利用され、結果として、「我こそは、悟りを得た、神秘体験を得た、神と出会った」という教祖・グルたちを量産させ、カルト宗教を非日常的に量産させることになりました。あるいは、日常生活においても、こうした「神秘体験」(を得たいという願望)の中に逃避してしまう「自己陶酔的な個人」を量産させることになってしまいました。

「自我を徹底的に否定しなければならない・棄てなければならない」という「教え」やその「手順」は、都市部の大手書店の精神世界コーナー等に陳列されて、あたかも、自我的欲望を大いに刺激する成功哲学のハウツーものの書物のごとく、迷える読者の自己陶酔的自我を満足させ、こうした人々の自我肥大の燃料となっているだけ、という状態に陥っています。「われこそが、成熟した大人である」という自己陶酔者や、「はやく成長しなくては」と焦る自己拘泥者などが溢れているのが、超近代的状況の典型なのです。

近代・超近代を含む消費社会の広告・マーケティング活動とは、基本的には消費者の自我を刺激するという一点に尽きます。「より美しくなりたいという自我」・「より賢くなりたりという自我」・「よりお金持ちになりたいという自我」・「より有名になりたいという自我」・「ナンバーワンになりたいという自我」・「オンリーワンになりたいという自我」・「個性を活かしたいという自我」・「素敵な出会い(恋愛)をしたいという自我」・「より謙虚になりたいという自我」・「より優しくなりたいという自我」・「より霊的に成長したいという自我」・「悟りを得たいという自我」などなど、都市部の大手書店にいけば、現代(近代・超近代)の私たちが、どのような自我に振り回されているかがよく理解できることでしょう。

これが「ポストモダン・ナルシシズム」であり、同時に、こうした多種多様の自我に振り回されている人々は、多様な価値観の狭間で、実は絶望もしており、しかし、それにも気が付いていないのです。これが「ポストモダン・ニヒリズム」です。「神と対話したい」という自我的欲望の下には、「そうした努力をすればするほど、実は神から遠ざかっている」という無意識的絶望が横たわっているのですが、それに無自覚なのです。

さて、単に「神の導き」という言葉ひとつにしても、私たちは、自らの自我のために、「本当の神の導き」を見失いがちになっています。実際、自我にまみれた私たちが、本当の「神の導き」に気づくことは、「らくだが針の穴を通るよりも難しい」とさえいえるでしょう。なぜなら、私たちが「これこそ神の導きに違いない」という「解釈」や「喜び」を得た瞬間、そこに自我が介入して、「本当の神の導き」を見失ってしまうからです。「神は自らを助ける者を助ける」という自助論においても、「自分の努力が報われたので、神に感謝だ」と言い得た瞬間、「本当の神の導き」を見失ってしまう危険性があります。「すべてを神に委ねて」という喜捨においても、「ゆだねたおかげで報われた、神に感謝だ」と言い得た瞬間、「本当の神の導き」を見失ってしまう危険性があります。実際、「(試練を受ける前の)ヨブによる神への感謝」は、こうした双方のコンビネーションに近いものだったのでしょう。

「本当の神の導き」は、「努力した自分」・「ゆだねた自分」という自意識(自我)の中にさえ、絶対に姿を現さないものなのです。そこに現われたものは、自意識(自我)と戯れる「対象的な神」だけなのです。そして、「努力した自分」や「ゆだねた自分」が、そのために幸福であるとき、そこには自分と戯れる「対象的な神」がいるだけであり、「努力した自分」や「ゆだねた自分」が、そのために不幸であるとき、そこには自分と戯れる「対象的な裁きの神」があったり、あるいは、「悪魔(対象的神の反対象物)」であったりするだけなのです。いずれも、「本当の神」からは最も遠い状態です。
迷信的宗教も、呪術・神話的宗教も、制度的宗教も、合理的宗教も、カルト的宗教も、個人的宗教も、無宗教的宗教も、どのようなものであれ、その中での「対象的な神(自我の属性としての神)」と戯れたり、翻弄されたり、支配されたり、支配されようとしたりするとき、私たちは、実は、「本当の神」から一番遠い状態にある、このことを知るべきなのです。


私たちは、自我を主体とした人生に生きるかぎり、様々な辛いことに遭遇します。生きることそれ自体が辛いことは言うまでもなく、自分・兄弟・両親の病気、自分自身の老い、両親の老い、親しい家族や友人との死別、そしてもちろん、自分の死。職場での人間関係、嫌の人とのもめごと、愛する人との別れ、愛を得られない孤独、共有できない心身の患い、要するに、四苦八苦です。こうした四苦八苦から逃れようとして、自我自体がすがる対象が、「似非の神の導き」なのです。「神の奇跡がこの病を治した」・「神の導きでこの人と出会えた」・「信仰が自分を若々しく保つ」などなど。自我は、こういった「似非の神の導き」と戯れながら、一喜一憂し、あいかわらず、四苦八苦の中にとどまっているのです。

自我から「神の導き」を求めるとき、私たちは、こうして意図も簡単に「本当の神の導き」を見失ってしまい、「似非の神の導き」にすがってしまうのです。こうした傾向を戒める言葉として有名なものに、「When you meet the Buddha, kill the Buddha.」があります。神を求める私たちは、いつの間にか、自我でそれを求めてしまい、気が付けば「偽物の神(対象化された神)」と出会ってしまっています。「偽物の神」は、いままでの議論からもわかるように、「対象物」なのです。ですから、「出会った」とき、この「出会った」という二元論的・対象的な関係性がゆえに、欺瞞性が判明します。私たちは、ただちにそれを追いやらなければなりません。「Kill the Buddha」なのです。

「本当の神」はいつも既に私たちを導いてくれています。「本当の神の導き」は、たしかにあるのです。ただ、私たちが自我の眼差しでそれを確認しようとするとき、あるいは、確認しようとする行為それ自体が自我を介入させてしまい、結果として、いつも既にあるその「本当の神の導き」を実感することが、「らくだが針の穴を通るよりも難しい」ということになってしまうのです


では、どうすればよいのか。もちろん、上述のように「本当の神の導き」への「手順」は、人類の教師たちによって示されてはいます。ただ、謙虚に(謙虚になろうとする自我さえ捨て去って)心と魂で、いまここに立ち返り、示された「手順」に従っていくしかない、ということなのでしょう。



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